残酷すぎる
美の正体
美はいかに私たちを
偽り、惑わし、
支配してきたのでしょうか?
東京美学倶楽部
関西支部 Presents
allure’ 特別講座
偽りの美しさを暴き、
真の美しさを説き明かす集い
- 6 月 2 日 (金) ※昼のみ
- 6 月 6 日 (火)
- 6 月 16 日 (金)
- 6 月 19 日 (月)
- 昼の部 14:00–16:00
- 夜の部 18:30–20:30
- 定 員 各回 15 名
- 受講料 3,000 円 (税込)
- 場 所 大阪市中心部
後援 東京官学支援機構
FROM 萩原 みゆ紀
歯に衣着せずにいいますと、「美学」の価値はすべての方に理解できるものではありません。多くの方は “役に立つ知識” や “実用的なスキル” をよしとし、すぐに成果につながる分かりやすい方法を探しています。
昨今はアート思考やデザイン思考など、美的教養がビジネスに必要だとの認識が広まりつつも、大半の人にとっては「どう役に立つのか分からない」「業績に結びつかない」「専門知識やスキルの方が重要」という認識です。
また、美的教養の必要性を感じている比較的感度の高い人たちでさえ、つまるところ美容・健康の話や美術史、個々の作品に対する雑学を学んでいるにすぎません。
これは根本的な思い違いです。美学とは、アートやデザインのような芸術論でもなければ、いかに美しくなるかという美容の話でも当然なく、経営の美学や生き方の美学のような人生哲学でもないのです。
「美は良いもの」は
正しいか?
では、本当の美とは何を意味するのでしょう。その理解には、美に対する数々の誤解を解きほぐしていく必要があります。
たとえば、「美は良いものである」とほとんどの方が考えています。これはなかなか否定するのが難しいのではないでしょうか。醜いものより美しいものの方がよい。汚いものより美しいものを得たい。できれば外見だけではなく内面からも美しくありたい。当然ですね。
けれども、少しばかり歴史を紐解いてみれば、美に人生を狂わされてしまった人たちはたくさんいます。
傾国の美女
楊貴妃に惚れ込み3,600万人が落命
楊貴妃という女性の名を聞いたことがない方はおられないでしょう。唐王朝の第九代皇帝玄宗は、絶世の美女、楊貴妃を寵愛しすぎたことから安史の乱を引き起こしたとか。なんと、この戦乱によって唐時代の人口の実に 3 分の 2 にあたる 3,600 万もの人が亡くなったとされています。
美の追求に囚われすぎた
芸術家の悲惨な生涯
19 世紀後半に起こったエステティック運動(芸術至上主義運動)は、芸術が美の追求以外には何も必要としないとする芸術至上主義であり、また美的な体験に人生の最大目的をおく立場を指します。その代表的人物である作家オスカー・ワイルドは、投獄されたり破産したりと苦難の人生を送っていたようです。
美を求め健康を害する
少女たち
現代社会は誰もがネットで自らを晒し、他人に晒される時代です。不特定多数からのまなざしは、求める美意識の基準も押し上げてしまったのかもしれません。けれどもそれは、正当な基準ではないですね。極端な減量をしたり身体を外科技術で修正したりと、健康を害してまで美を得ようとする少女たち。大人の女性でも極端に美を求める方はいますが、経済的にも精神的にも発達途中の少女たちのその傾向はとくに問題視されています。
このように、美は私たちを魅了し快楽を与えてはくれますが、ときに人々を偽り、惑わし、狂わせてしまうほどの影響力を持っているといえましょう。
逆に「美は狂気」
これは正しいか?
では、逆に美は悪いものという解釈はいかがでしょう。美は狂気であり、決して素晴らしいものではない。狂気が極まった先に美が宿る。このように考える奇抜なアーティストは少なくないようです。
けれども、結局は一般的な解釈を反転させただけにすぎず、視座の低いアプローチには違いがありません。すなわち、美に飲み込まれてしまうしかない。美の狂気的な面にふれて、観る人に魅惑的な美のギャップを呈示しようとしたがために、自らが半狂乱状態に陥ってしまうという、アンビバレントな境地に陥ることにもなってしまいます。
昨今は「美しい」という表現そのものを忌避する傾向もありますが、これもまた美に支配されている構造は変わりません。進歩的な考え方をしているように見えて、その実情は同じ穴の狢といえましょう。真の美ではなく、偽りの美に振り回されている私たちは、本当の意味で美しくなることもできなければ、逆に醜くなることすらできません。
美を支配の道具に
してきた人たち
美に人生を狂わされる人たちがいる一方、美を利用し人々をコントロールしてきた人たちもいます。
美しいとは何かを定義し、基準を定め、ある種の価値判断を強制する。私たちに馴染みのあるところでは、広告・宣伝などがそうでしょう。その表現を通して私たちが目にする美の基準は、決して普遍的な美しさではなく恣意的な美しさです。とはいえ、それに囚われてしまえば、不必要なお金を払わされ、借金をしてまで偽りの美に操られてしまうことも。
美しさにコントロールされるのは、何も市井の人々だけではありません。天才もまた美に惑わされてしまいます。
たとえば、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは、数学に秘められた神秘性や調和の美しさに魅せられていました。三平方の定理で有名な哲学者であり数学者である彼は、数の美的な在りように執心してピタゴラス教団という宗教団体まで立ち上げ、人々を信者化したほどです。
美は主観的であり、美しさの基準は人それぞれ。だからこそ、それを利用すれば、美を定義し、美を絶対化することができます。権力者が定義した美しさの基準に私たちは翻弄され続けています。
どちらにしても、美の枠にはめられ、美に支配されている点では共通しています。美を支配の道具にしてきた人たちもまた、実は美に支配されているといえます。
では、なぜこのように、美には底知れない強固な求心力があるのか考えてみましょう。
美はいかに
私たちの人生を
狂わせるのか?
実は私たちが美に支配されてしまった理由はシンプル。美しさへのアプローチの仕方が間違っていたからです。代表的なものを三つほど挙げてみましょう。
美に狂わされた理由1
具体的な美を追求していたから
具体的な対象に美を見いだそうとする。それは異性かもしれませんし、芸術作品かもしれませんし、自然かもしれません。これらには、美しいものが臨場感のあるものとして存在しているという前提があります。とはいえ、具体的であるがゆえに絶対化してしまい、権威的になる。そして、ときには暴力的にもなってしまいます。
美に狂わされた理由2
抽象的な美を追求していたから
抽象的な概念として美を求めようとする。それは感情的なことかもしれませんし、理念的なものかもしれませんし、理想化された教えかもしれません。とはいえ、抽象的であるがゆえに、共通認識がつくりづらく、解釈の幅を無秩序に広げ、自己中心的な価値観を増やしてしまう。そして、ときには社会に混乱をもたらす元凶にもなってしまいます。
美に狂わされた理由3
科学的に美を追求していたから
科学的に美を定義しようとする。それは脳科学の視点かもしれませんし、心理学の視点かもしれませんし、生物学の視点かもしれません。とはいえ、科学的であるがゆえに、それは美しいという実感を伴わない空論で終わってしまう。このような美の理論は、広告でお金儲けに利用されるだけにしかなれないのが虚しさを感じるところ。そして、ときには唯物主義や拝金主義の温床となってしまいます。
そう、美を求めるこれらのアプローチはすべて「真美」とはかけ離れていくもの。本当の美に近づくには、まったく別の視座からアプローチをしなければならないのです。
美に支配されるしか
ないのなら、
ただ
真美にかしずくのみ
この美の持つ圧倒的な力には、もはや支配されるしかないようです。美に振り回される人も、美を利用していると思っている人も、どちらも美に支配されているのですから、私たちが逃れる術はありません。
ならば「虚構の美」に支配されるより「真の美」に支配されるほうが遥か先が拓かれていくという明るい未来への予感がしませんか。
低い視座からのアプローチは、単に横展開にとどまり、偽りの美に人生を奪われてしまいかねません。縦に高く、奥に深く美にかしずく生き方は、意識をより研ぎ澄まし、ゆたかな視点をもたらしてくれるでしょう。
それはまさに大いなる調和のもとで、これまでにない発想を手に入れるとき。時代の変化に動じることなく、目の前の課題も柔軟に乗り越えながら、まったく新しく生まれ変わる爽快な感覚を得られる瞬間です。
同時に、美という最上級の知的教養にふれることを通して、社会との一体感、世界との繋がりを感じ、自らの存在意義に確かな自信を持てるようにもなりえましょう。
なぜ日本では
真美を探究できる
場がないのか……
ただ、日本は美学を学ぶハードルが高いです。試しに研究者データベースなどで美学の研究者を検索してみると……百数十名の研究者しかいない上に、その大半が歴史や宗教、神経科学や生物学などの視点からの研究です。
「美とはそもそも何なのか」という哲学的な問い、すなわち形而上の問いに向き合っている学者さんは、片手で数えられるくらいしかいらっしゃらないようです(それでも、結局は役に立つ/立たないという基準の枠内にとどまっているようで……)。
私自身も京都の美大出身ではあるものの、その遠い昔を思い起こしてみても、哲学的な美の探究というようなものはまったく耳にした記憶がなく。アート領域の中での芸術学とその周辺の容易に目にみえる美を受け取っていただけであったことが思い起こされます。
このように、美学研究者がほぼ皆無であれば、そもそもそのような研究をする意義も価値も、社会的需要もないのではと思われるかもしれません。
それも当然でしょう。美を学んだところで、ビジネスのどんな成果につながるのか分かりませんし、具体的に売上や収入がどのくらい増えるかなどは示しようがありません。
なので繰り返しますが、このような「役に立つ知識」をお求めの方には、真美の探究は必要ありません。どうぞこれまで通り、科学や自己啓発の類を学んでいただければと思います。
一方で、美的教養を身につけようとする姿勢は素晴らしいこととは思いますが、私たちは知識を得ることには意義を見いだしてはいません。なぜならば、知識や雑学、ウンチクとしての美的教養を学んでも、個人的な自己満足以上のものは得られないからです。
そうではなく、自らの利益や社会の問題解決の役に立つかどうかというような近視眼的な発想はいったん脇におき、日本の数十年、数百年先を見据えて真美の探究が必要だとの結論に辿り着いています。そして学術機関などの関係諸団体の協力も得た上で、このたび、関西圏において真美の一端にふれる集いを立ち上げるに至った次第です。
偽りの美しさを暴き、
真の美しさを説き明かす集い
東京美学倶楽部
allure’ へのいざない
東京美学倶楽部は、いわゆる “役に立たない知” の普及を推進するための完全会員制プライベートサロン。
その関西支部は、「国とともに、人文知を守る」という理念を掲げております東京官学支援機構後援のもと、真美を探究し教養を醸成していくという最上級の知的体験をお届けする場として立ち上がりました。
今回、その一般向け講座として「allure’ 特別講座」を開催いたします。
allure とは、仏語では「歩き方・歩調」、英語では「魅力的な・魅惑的な」などの意味を持つ言葉。気品・洗練・寛容・風雅・魅惑……いくら並べても伝えきれない、その人にしかない魅力が allure といえましょう。そして時空間を超え allure を新解釈。言葉では語り得ないクラシカルな薫りとしてサロンの愛称 allure’ に。
この未だかつてない真美という神秘性を帯びた佇まいを関西支部の理念に映しこみ、これからの日本の再生を祈り、活路を拓いていく所存です。偽りの美ではなく、真の美に近づこうと願うのは、普遍の美を無意識的に求める人間として自然なあり方と言えましょう。
最上級の知的体験をお約束
今の日本には、実利的な学び、実用的な学び、即物的な学びしかありません。もちろん、そのような役に立つ学びも必要ではありましょう。しかしながら、それだけでは人生というものはつまらなく、彩りも暗く、なにより人として生きる意味を失ってしまいかねません。
「物質的には豊かになったけれど、心は貧しくなってしまった……」
昔から言われていることではありますが、これはある意味で現代日本人のありようを捉えている指摘であり、耳を傾けるべき言葉です。
allure’ で行われる知的体験とは、答えのない問いに向き合うこと。それは分断や対立を乗り越えた先の普遍的な美の可能性を信じ、その在り処へと思考をめぐらせること。嘘偽りのない純粋性を志向すること。
今はまだつかみどころのない内容に思えるかもしれませんが、唯一無二のたおやかな体験となることはお約束いたします。
allure’ 特別講座の内容は……
- なぜ美意識の高い人ほど心が汚いのか?
- クリエイティブを目指す人が陥りがちな、美しさの罠とは?
- 美しさを理解するための唯一のアプローチとは?
- 美の神秘性・迷宮性
- あなたが個人として美学を学ぶ価値とは?
- 偽善的貢献と美的貢献の違い
- 日本の未来のために美学を広める意義とは?
- 自由な発想や創造的な思考を邪魔するものたち
- 芸術が冒した美に対する罪
- 科学的だと喧伝する人たちが私たちを苦しめる理由
- 悩みや問題を美しく解決する秘密
- 西洋中心主義を乗り越える日本の美の可能性……etc
よくあるご質問
美学を学べば美しくなれますか?
美しくなれるかどうかはご自身に依るところですが、美の意味の新解釈を手にすることができれば、それは実人生での美しさにもつながることでしょう。
そもそも、その “美しさ” とは何か、”美” とは何かを深く、哲学的、または形而上学的に考えたこともない方がほとんどではないでしょうか?
その意味では、美しくなれるかどうかを保証することはできませんが、これまでにない美しさの解釈を手に入れられることはお約束できましょう。
美学を学べばクリエイティブになれますか?
こちらも同じく、クリエイティブになれるかどうかはご自身に依るところですが、クリエイティブな発想とはまさに新しい概念の創出であることを踏まえれば、美学を学ぶことの意義は自ずと明らかになるのではないでしょうか。
当然、大学研究機関その他で学べるような ”科学や歴史の視点から” 体系化された美を学んでも、独創的なアイデアや創造的な発想は降りてきません。
まずは、科学、ウンチク、雑学、専門家が言っているような説明から脱却することが必要です。allure’ で学べる美学とは、既知を乗り越えたところにあるものです。
美学を学べばビジネスで成果が上がりますか?
ご自身の努力に依るのは大前提として、もちろん美学の学びはビジネスの成果にも直結します。なぜなら、ビジネスとは人を動かすことであり、人を動かすとは魅了することであり、魅了するとは美を体現することだからです。
ですので、ご自身の中の美しさの解釈が更新され、その新たな美しさの概念をビジネスに応用すれば、当然成果にもつながるでしょう。
ただし、美学は “直接的に” 役に立つ知ではありませんので、具体的に応用できるかどうかはご自身の力量やセンス次第といえましょう。もちろん、美学を学べばその応用力やセンスも磨かれていくことは間違いありません。
難しそう?
だからこそでは。
「理解できないからこそ、学ぶ意義と価値がある」
このようには思えない方、未知の世界を知ろうとしない方、受け入れようとしない方が実に多いと感じています。
これまで “役に立つ知識やスキル” を追ってきた方からしてみれば、何を得られるか想像もつかないような学びは、費用対効果が少なく時間の無駄だと感じてしまうかもしれませんね。もしくは、自分にとって理解できない状態はプライドが赦さないのか、その痛みに耐えかねてしまうのか。だから、多少なりともよい見通しが持てる学び、イメージしやすい臨場感のある学び、想定内の楽しめそうな学びばかりを繰り返す。
そう、多くの人は、今の自分の価値観を補強してくれる学びに手を伸ばしてしまいがちです。
「先生、私が普段考えていたことが聴けて嬉しかったです」「具体的でわかりやすかったのですぐに使えそうです」このような感想が出るなど、まともな大人からすれば失笑ものだと思うものの、世間の多くの方はそうではないようです。
すぐに役立てようとしないのが大人の学びたる本質。これもまた、国のためにじっくりと養っていかなければならない学びのあり方でもあります。
私たちに
残された選択肢は、
真美にかしずくのみ
役に立つかどうか分からない学びであり、最上級の知的体験が得られる唯一残された領域である美学。自分にとって有益かどうかというエゴイスティックな判断基準ばかりがはびこる現世にあって、最後に残された純粋性の砦たる美学。
圧倒的な支配力を持つ美にかしずくしかないのなら、偽りの美を明らかにし、真の美を垣間見ようと思いを新たにするのは極めてスマートな所作。
自他を超えたものの価値を信じ、わずかなりとも美の在りように興味を持っていただけましたなら、ぜひ説明会へ足をお運びくださいませ。
会場にてお目にかかれますのを心待ちにしております。
主宰者
美の言葉をまとうこと そのものが装い
萩原 みゆ紀
Hagiwara Miyuki
東京官学支援機構 専務理事
東京美学倶楽部 上席研究員・関西支部主宰
東京美学倶楽部
関西支部 Presents
allure’ 特別講座
偽りの美しさを暴き、
真の美しさを説き明かす集い
- 6 月 2 日 (金) ※昼のみ
- 6 月 6 日 (火)
- 6 月 16 日 (金)
- 6 月 19 日 (月)
- 昼の部 14:00–16:00
- 夜の部 18:30–20:30
- 定 員 各回 15 名
- 受講料 3,000 円 (税込)
- 場 所 大阪市中心部
後援 東京官学支援機構